今朝のウォーキングの時に竹林の中から銀木犀(ギンモクセイ)の芳しい香りが漂っていました。毎年、稲刈り時期になるとこの香りに癒されます。山萩やネコハギ、コマツナギなどのハギの仲間たちの花も咲き始めました。植物たちはこの異常気象にも関わらず、体内時計の正確さにはいつも感心させられます。〜写真は休耕田に群生して生えていた“スベリヒユ“です。黄色い花は10mm足らずですが、葉の濃い緑とのコントラストが、朝日に反射して眩しいです。食用にもなりますが多食は避けた方がいいようです。

岩橋善兵衛は何をした人なのか?この前借りてきた本の中に“星眼鏡“を日本で初めて作った人とありました。星眼鏡は天体望遠鏡のことですが、寛政五年(1793年)善兵衛が作ったのは屈折望遠鏡で凸レンズを数枚組み合わせて遠くのものを光の屈折で目的の像を大きく見せるものです。このタイプの望遠鏡は「ケプラー式」と言われています。そしてこの40年後に国友一貫斎が天保4年(1833年)に日本で初めて反射望遠鏡を作りました。「グレゴリー式」という凹面鏡を主鏡と副鏡の2枚を合わせたものです。いずれも世界に誇る日本の至宝です。この二つ望遠鏡の簡単な構造です。左がケプラー式、右がグレゴリー式です。ケプラー式は像が逆さまに見えるために地上では使いづらい欠点があります。

岩橋善兵衛は今から270年前の宝暦6年(1756年)和泉の国の貝塚脇浜新町で漁夫の家に生まれました。成人になってからは昼は眼鏡職人として眼鏡のレンズを磨いて販売して生計をたててていました。当時の眼鏡レンズの原料として多くは水晶を使用しており、この水晶を大和国金剛山から出土した柘榴石(ざくろいし)の結晶片(金剛砂)で研磨してレンズをつくっていました。近眼用、老眼用、そして度数も変えて作っていたようです。それよりも前の1600年代には大坂、京都、江戸でも一般的に作られていたようです。水晶は高価で貴重だったので1700年代の後半には水晶からガラスに変わり始めたようです。
左写真は鉄皿とレンズで、右は製作用工具です。(写真は大阪 伊達英太郎氏の資料より)

眼鏡をつくりながらでも、器用で好奇心の強い善兵衛は星空に興味を持つようになり、自然科学を学ぶために京の医師の橘南谿(たちばななんけい)や儒学者の皆川淇園(みながわきえん)の下に通うようになりました。やがて自然科学関係の人たちと知り合うようになったそうです。数年後にはそれなりの科学者になっていました。そして以前から興味があったオランダの望遠鏡の構造、構成部品、特にレンズ部分などについて研究を重ね、念願の“星眼鏡“の製作を始めたようです。
〜私も小学6年の頃に家にあった直径10cmの3cmの虫眼鏡を使って望遠鏡を作りました。しかし、見える像の周りに分光した虹模様が出て観察どころではありません。色収差というもので対物レンズや接眼レンズには組み合わせレンズが必要なことを初めて知りました。その他に球面収差・歪曲収差などもあり、レンズの球面の精度が最も重要なことを覚えました。反射望遠鏡には色収差はありませんが、やはり凹面鏡の精度は重要です。〜
善兵衛38才になった寛成5年(1793年)の時、完成した自信作の望遠鏡(窺天鏡 きてんきょう)を京都の師のもと持参したそうです。そして2年後、さらに精度を上げた窺天鏡を医師や当時の知識人に披露し、日本で初めての天体観望会を開いたそうです。オランダの渡来品に劣らない優れたものであると評価されました。こうして京都の知識人たちから窺天鏡が幕府や各藩に紹介されて多く愛用されるようになったそうです。のちに「伊能忠敬」も沿岸測量に使用しています。〜レンズの球面精度はどの様に検査したのでしょうか?
〜写真資料は貝塚市にある“善兵衛ランド“の展示品からです。左は望遠鏡の製作手順書、右が天体の解説書で開いているページは窺天鏡の図と太陽の黒点スケッチ図のようです。

窺天鏡と下は構造図です。長さは不明ですが、大きいものでは2mを超えたようです。

善兵衛が天体観測の時に使用した各種測定具です。左から小方儀、中央は象限儀–矩尺(かねじゃく)–ノギス、右は渾天儀(こんてんぎ)です。

当時は望遠鏡を一つ作って売れば一年間は楽に暮らせたと言います。彦根藩の国友一貫斎は天保の大飢饉の時に自作の反射望遠鏡を諸藩に売って餓死寸前の村民を救ったとも言われています。それだけ価値のあるのが“星眼鏡“だったのです。“善兵衛ランド“にある展示品の多くは2003年に大阪府有形文化財に指定されています。岩橋善兵衛の末裔の岩橋茂治さんは9代目に当たり、今は大阪心斎橋で貸店舗業を営んでいるそうです。機会があれば“善兵衛ランド“に行ってみたいものです。










