nakamasa201のブログ

定年からハカ場まで

上総の方言③…千葉在住半世紀人

なかまさ70

冬の木、柊(ひいらぎ)の純白の花が一斉に咲き始めました。香り豊かな花で、金木犀、銀木犀の仲間です。これから剪定に入りますが、それでも花は次々と咲いてくれる逞しい柊です。移植した30年前は2mほどでしたが、今では4m近くに成長しました。

上総の方言は何処からきたのか。房州は古代から日本の中央で交差点のような地域であったために言葉(方言)の原点は何処にあったのかを知るには難しいかもしれません。前回では、上総の言葉は、東北弁(ズーズー弁)からきたのではなくて、歴史的背景から、逆に上総弁が東北弁に影響したのでは無いかということでした。


房総弁と東北弁の比較ですが、少しだけ紹介します。先ずは岩手弁です。〜房総弁→岩手弁(標準語)です。おらほう→おらほ(俺の方)、けぇ→け(食べろ)、こえぇ→こわい(疲れた)、まっと→まっと(もっと)〜次は秋田弁との比較です。いっぺい→いっぺ(いっぱい)、えんころ→えんこ(犬)、くっちゃべる→くっちゃべる(しゃべる)、そっだば→そいたば(それなら)、てんげ→てぬげ(てぬぐい)


次は南部弁てす。はなべちゃ→はなべっちょ(低い鼻)、かっこ→かっこ(下駄)、こっばずかしい→こっぱずかす(恥ずかしい)、むぐる→むぐる(潜る)、おべる→おべる(覚える)、次は津軽弁です。あらほど→あらほど(あれほど)、おべる→おべる(覚える)、こちょぐる→こちょがし(くすぐる)、ちっとばぁり→ちとばえ(少しばかり)、もこ→もご(婿)、よばる→よばる(呼ぶ)


以上ですが、房総弁と東北地方の言葉はよく似ていますが、東北では冬の寒さに対応して、できるだけ短い言葉となり、簡略化してきたと言われているようです。これは房総弁からこの地域に適応して進化してきたとは言えないでしょうか。房総弁は東北弁の元となっていたと考えたくなるのは少数意見かもしれませんが…


次に房州弁でもその地域でそれぞれのマイナーな方言の違いかあります。その違いを“標準語“をもとに比較したいと思います。全文は長いので始めの部分だけの比較です。

原文は「雨蛙はなぜ鳴くか〜昔、昔のことだがあるところにそれはそれはへそ曲りな雨蛙がいたそうだ」〜これを安房白浜では「むかあし、むかし、大むかしのこったぁがな。そぉんところはとうだぁかわかんねぇがあるとぉろになぁ あぁんがぁってたら、どうしようもねぇ。へそ曲がりのあんごぉがいたあてよぉ」、


上総の木更津では「アマンゲーロはあんで鳴ぐだぇ〜昔、昔のことだっけんよー、あるところにそりゃーそりゃへそ曲りのアマンゲーロがいたってさ」、袖ヶ浦奈良輪「昔、むかーしのおとだっけな。あるとんにそらそら、へそ曲がりんあまんげえろがいたったち」次は市原八幡町「昔、昔のことだけんど、あるところさよ、えれーへそ曲りなあまんけーるがいただっちよ」


下総の千葉市では「昔々のこったけん、あるとこさ、そうらへそ曲がりの雨げえるがいたんだっち」、小見川町では「あまげえろはなんでなくんだっぺぇ〜むかーし、むかしのことだっけど、あるところに、そらあ、そらあ、へそまがりのあまげえろが、いただっけ」、銚子では「しょんべんげえろはあんでなくだっぺ〜むがし、むがしのこったけっとよ、あるとごになや、そりゃーそりゃーへそがぶん曲がったしょんべんげえろがいだだって」


それぞれの地区は広いので一部の地域から選びましたが、多少の違いはあります。しかしながら、安房、上総、下総との違いがわかります。中でも木更津では“いたってさ“は江戸、銚子の“あるとごになや“は東北弁の影響を受けているようです。松本清張の「砂の器」の中で出雲地方にも東北弁(訛り)があったというストーリーでしたが、日本海沿いの富山などの一部の地域でも東北弁が残っているそうです。北前船の西回り航路で伝わったとすれば、房州から陸路→東北から海路→出雲と考えられないことは無いと思います。


千葉在住半世紀人には上総弁(房総弁)のルーツは不透明のままです。語源はある地域で発生した後は、拡散しながらそれぞれの場所で定着していくものであって、何処かにルーツがあるという考え方は間違っているのかもしれません。今回は難題でしたが、ただ東北弁が房総弁となったのではなくて、その逆であったという説は十分にあり得ると思います。


このブログは「房総のふるさと言葉」の編者、安藤 操さんの本を参考にしていただきました。房州の方言を詳しく調査されていて、楽しい内容の本です。CD付きなのでアクセントやイントネーションの違いがよくわかります。興味がある方は是非一読をお勧めします。これで「上総の方言…千葉在住半世紀人」を終わります。

上総の方言②…千葉在住半世紀人

なかまさ70

12月に入り、小春日和が続きましたが、先日の強風で家の回りの枯れ葉も落葉となり、家の隅などに吹き溜りになっています。写真の先週の“内みのわ公園“の写真ですが、もみじなどは既に落葉していると思われます。今週は冬が一段と近づきそうです。

上総弁(房州弁)は何故に東北弁に似ているのか。このことを考えるようになって、東北弁が房総地方に根付くには大きな民族移動などがあったのではないかと思うのですが、歴史上その事実は少ないのです。どのようにして東北地方から言葉が伝播したのでしょうか。


江戸時代になってから、北前船などが東北周りで銚子などに立ち寄っていますが、房州全域に、その言葉を根付かせるほどの規模のものでは無かったと思います。また、昨年12月のブログで「総の国と奥州の国」で紹介しましたが、9世紀の“俘囚 ふしゅう“の関東への強制移住もありましたが、これも地元言葉を変えるほどのものではないと思います。…そこで逆説的にもしかして房州弁が東北弁に影響しているので無いかということですが、その仮説とするならば房総弁は何処からきたのでしょうか。古代から考察していきたいと思います。


古代の神話の時代において、倭建命の東方征伐や、阿波忌部による安房地方から下総に及ぶ開発、そして、もう少し後の6世紀頃から後の古墳時代以降には、この頃の大和王権からは全国を統一して中央集権を目指すことになりますが、東国の関東へは陸路、海路とかなりの人数を派兵しています。地方の豪族を取り込みながら東進します。ここで恐らく中継基地となったのが千葉、茨城の周辺で、ここから、北方征服に進んだと考えられます。(10月のブログ「古代寺院」で紹介)、大和の国から物資や食糧が運ばれ、当然のこと人間の移動もありました。この頃から、房州は人口が増え定住した人たちが言葉を定着させていったのでは無いでしょうか。(これは私見です)


奈良時代には東北地方への進出が本格的になり、737年陸奥国、776年出羽国に軍勢を進め、多賀城を築き前線基地として東北地方を平定していきます。そして796年には房総の人達9000人を陸奥国の伊治城へ移住させ、6年後には同国の胆沢城に房総などから4000人の兵を配置しています。房州の言葉が東北に伝わっていったと考えられる一つの史実です。〜今年10月のブログ「古代寺院」で紹介した資料です。

徳島の阿波の千葉の安房には似た言葉がいくつかあります。〜阿波→安房( 標準語)ごじゃ→ごじゃっぺ(でたらめ)、やりこい→やっけい(やわらかい)、なんしにきたん→あんしにきただ(何しにきた)、おもっしょい→おもっしれい(おもしろい)、かいらしい→かいらしけい(かわいらしい)、のうなる→なうなる(なくなる)、いごく→ いごく(うごく)、ねぶたぁ→ねぶてぃ(ねむたい)〜などです。遠く離れていますが、偶然とは言い切れません。


鎌倉時代になって、開府に功績のあった千葉氏が全国各地の領地を源頼朝から授かります。奥州平泉の藤原一族、源義経を征伐した功績で千葉常胤(つねあつ)の長男は奥州胆沢郡、次男は岩城相馬、三男は亘理郡、四男は岩城郡、五男、六男は仙台周辺の所領を与えられています。〜少し話しはそれますが、これより200年ほど前に菅原道真が太宰府に左遷された後、9男の菅原滋殖(しげいく)は河家郷(長南町給田付近)に定住し、“紅花“を育て特産品としました。時代はずっと下がり江戸時代になって出羽国酒井の臣として庄内にうつったそうです。この地域の紅花は長南町の人々がこの地に広げたものと言われています。


こうして房総の人達は東北地方へ移住して行きました。江戸時代になって利根川が江戸湾から太平洋に流れを変え、北前船が東回りで“銚子“に寄港し、水路で江戸に物資を運ぶルートが確立されました。結果、銚子は大いに栄え東北地方や関西方面からの出店(支店)が多く立ち並ぶようになります。銚子弁はこれらの地域と房州弁が混ざった地域です。少し例を上げます。(  )は標準語です。〜あだげる(さわぐ)、うんならがす(張り切る)、ばぐろーする(交換する)、までる(片付ける)、あじこい(かわいい)、ねねこ(赤ん坊)、ねちょぶげー(しつっこい)、みじみじ(しっかり)、やきやき(いらいら)、ほーらいさん(大波)など房州弁とは異なる方言が残っているようです。


そして江戸時代には何より紀州の漁民たちが、鰯を求めて房州沿岸で漁をするようになります。“干鰯 ほしか“という肥料を作るためですが、江戸が発展して市場となってからは、その漁師たちが房総沿岸に定住するようになり、漁の方法も伝承していきます。房総の沿岸地域は紀州弁が混ざってきました。共通の言葉の例を少し上げます。(  )は標準語〜ありゃこりゃ(あべこべ)、いける(埋める)、いっこも(ちっとも)、うだうだ(くどくど)、おおきに(ありがとう)、おしまいな(こんばんは)、今のさっき(ついさっき)、きんのの晩(昨晩)、くさった天気(悪い天気)、よせる(仲間に入れる)などです。


また江戸時代には江戸湾の海上交通が発達し、安房からは押送(おしょくり)舟、木更津や上総湊などからは五大力船などが魚や薪、炭、米などを運び、そして定期航路として人間の往来が盛んになり、明治の鉄道が開通する頃まで続いていました。特に木更津は江戸との海運が盛んで、江戸言葉がかなり混ざってきていたと思われます。


そして江戸時代には戦国時代に功績があった遠州の家臣たちは、房総の各地に大名としてお国入りしています。大多喜城は本多忠勝、久留里城は大須賀忠政、佐貫城は内藤家長、臼井城は酒井家次などです。房州弁とは家臣たちの遠州弁が混ざってきたと思われます。


房州弁はその地域と関係した阿波、紀州、大和、東北、遠州地方などの言葉が混合してきたものと思いますが、東北地方と房州の類似の言葉や房総各地で主な地域の言葉(方言)で同じ文章を読んでいただいたものを紹介したいと思います。少し文面が長くなりました。

〜次回に続きます。

このブログは「房総ふるさと言葉」安藤 操著を参考にさせていただいています。

上総の方言①…千葉在住半世紀人

なかまさ70

この周辺の紅葉も終わりつつありますが、写真は先日、訪れた「もみじ坂?昨年紹介」の紅葉です。そばにあった石碑は「道標」で“従是北千葉県君津郡周南村“と書かれています。少しピンぼけになりました。この道標ですが、中ほどで折れたみたいで後側をパイプで固定していました。これを施行した3人の名前がありましたが、その内の一人が、以前紹介した「松本」さんでした。我が家の前の畑で家庭菜園、そして愛犬の“リッくん“を「ポツンと一軒家」から連れてきてくれた人です。今年は「松本」さんの3回忌でした。南無🙏

1972年にこの千葉に住み始めて五十数年になりました。気候は温暖で、海や山の自然豊かな住みやすい所です。風が強く、地震が多いのが難点ですが、住む場所としては最高だと思っています。〜猪とかの害獣はいますが、最近、話題の“熊“はいません。


この千葉で働き始めた頃の話です。四国の田舎から出てきた私は自分の話す言葉(方言)が気になっていました。しかし、会社の先輩方は同じ四国の出身だったのでまずは支障はありませんでしたが、問題は地元の人達の話す言葉が途切れ途切れで意味不明のところがありました。職場は地元の協力会社作業員と話す機会が多くあり、喋り方で何となく理解してきましたが、上総の方言は東北地方の言葉が影響しているのか、語尾にズーズー弁の“だべ“とか“だっぺ“などです。なぜに東北なのでしょうか。図書館で「房総ふるさと言葉」安藤 操著を借りてきて少しだけ深読みしてみました。〜方言はこの本を参考にしています。


まず最初に上総の方言を一部だけですが紹介したいと思います。(  )内は標準語です。〜あんとんねぇ(何ともない、心配ない)、あんじんもかじんも「なにしてもかにしても」おんてぃ(重たい)、えかい、えっけい(大きい)、おおっさ(そうだ)、こええ(疲れる)、こてらんねぇ(こたえられない、素晴らしい)、そうらんまし(そこらあたり)、ちゃあれ(捨てろ)、てっぱつ(大きい)、ぬきぃ(暖かい)、ゆうつ(いくつ)今になってみると理解できますが…話し言葉となると〜


義父は木更津矢那の生まれ育ち上総弁そのものの人でした。その話し方はこんなふうでした。(内容は事実とは異なります)〜「こんな米がとれなったぁおいねーさ、あんがあっただよ」隣の爺様は「おめらがなんか米づくりが上手だもん いい方だよ。おらがなんか、あじんもかじんも おいねーよ」、あっじんしたっぱいいっぺかよ、“ああ“飯でんかぁねばおいねっぺよ。まあそおうちん いいこともあっぺよ。〜“ああ“とは粟のことです。今でこそこの会話は何となくニュアンスでわかる感じがしますが、当時は難解でした。〜最近になってこの地域(部落)も世代交代でこう言った言葉は聞かれなくなってきました。


千葉県内でも安房、上総、下総ではその方言は異なります。下総の銚子や小見川、佐原そして上総でも成東町や東金市、夷隅郡辺りまでは標準語に近いのですが、野田市、柏市から南の方の浦安市、千葉市など、そして上総は“べぇ“や“だっぺ“など言葉が使われています。しかし安房地方の言葉はこれらと異なります。同じ千葉県でこの違いは何なんでしょうか。


やはりこれはこれらの地域の歴史を考えないといけないと思いました。〜次回に続きます。

このブログは「房総ふるさと言葉」安藤 操著を参考にさせていただいています。