nakamasa201のブログ

定年からハカ場まで

和泉国…岩橋善兵衛が作りし星眼鏡

なかまさ70

今朝のウォーキングの時に竹林の中から銀木犀(ギンモクセイ)の芳しい香りが漂っていました。毎年、稲刈り時期になるとこの香りに癒されます。山萩やネコハギ、コマツナギなどのハギの仲間たちの花も咲き始めました。植物たちはこの異常気象にも関わらず、体内時計の正確さにはいつも感心させられます。〜写真は休耕田に群生して生えていた“スベリヒユ“です。黄色い花は10mm足らずですが、葉の濃い緑とのコントラストが、朝日に反射して眩しいです。食用にもなりますが多食は避けた方がいいようです。

岩橋善兵衛は何をした人なのか?この前借りてきた本の中に“星眼鏡“を日本で初めて作った人とありました。星眼鏡は天体望遠鏡のことですが、寛政五年(1793年)善兵衛が作ったのは屈折望遠鏡で凸レンズを数枚組み合わせて遠くのものを光の屈折で目的の像を大きく見せるものです。このタイプの望遠鏡は「ケプラー式」と言われています。そしてこの40年後に国友一貫斎が天保4年(1833年)に日本で初めて反射望遠鏡を作りました。「グレゴリー式」という凹面鏡を主鏡と副鏡の2枚を合わせたものです。いずれも世界に誇る日本の至宝です。この二つ望遠鏡の簡単な構造です。左がケプラー式、右がグレゴリー式です。ケプラー式は像が逆さまに見えるために地上では使いづらい欠点があります。

岩橋善兵衛は今から270年前の宝暦6年(1756年)和泉の国の貝塚脇浜新町で漁夫の家に生まれました。成人になってからは昼は眼鏡職人として眼鏡のレンズを磨いて販売して生計をたててていました。当時の眼鏡レンズの原料として多くは水晶を使用しており、この水晶を大和国金剛山から出土した柘榴石(ざくろいし)の結晶片(金剛砂)で研磨してレンズをつくっていました。近眼用、老眼用、そして度数も変えて作っていたようです。それよりも前の1600年代には大坂、京都、江戸でも一般的に作られていたようです。水晶は高価で貴重だったので1700年代の後半には水晶からガラスに変わり始めたようです。


左写真は鉄皿とレンズで、右は製作用工具です。(写真は大阪 伊達英太郎氏の資料より)

眼鏡をつくりながらでも、器用で好奇心の強い善兵衛は星空に興味を持つようになり、自然科学を学ぶために京の医師の橘南谿(たちばななんけい)や儒学者の皆川淇園(みながわきえん)の下に通うようになりました。やがて自然科学関係の人たちと知り合うようになったそうです。数年後にはそれなりの科学者になっていました。そして以前から興味があったオランダの望遠鏡の構造、構成部品、特にレンズ部分などについて研究を重ね、念願の“星眼鏡“の製作を始めたようです。


〜私も小学6年の頃に家にあった直径10cmの3cmの虫眼鏡を使って望遠鏡を作りました。しかし、見える像の周りに分光した虹模様が出て観察どころではありません。色収差というもので対物レンズや接眼レンズには組み合わせレンズが必要なことを初めて知りました。その他に球面収差・歪曲収差などもあり、レンズの球面の精度が最も重要なことを覚えました。反射望遠鏡には色収差はありませんが、やはり凹面鏡の精度は重要です。〜


善兵衛38才になった寛成5年(1793年)の時、完成した自信作の望遠鏡(窺天鏡 きてんきょう)を京都の師のもと持参したそうです。そして2年後、さらに精度を上げた窺天鏡を医師や当時の知識人に披露し、日本で初めての天体観望会を開いたそうです。オランダの渡来品に劣らない優れたものであると評価されました。こうして京都の知識人たちから窺天鏡が幕府や各藩に紹介されて多く愛用されるようになったそうです。のちに「伊能忠敬」も沿岸測量に使用しています。〜レンズの球面精度はどの様に検査したのでしょうか?


〜写真資料は貝塚市にある“善兵衛ランド“の展示品からです。左は望遠鏡の製作手順書、右が天体の解説書で開いているページは窺天鏡の図と太陽の黒点スケッチ図のようです。

窺天鏡と下は構造図です。長さは不明ですが、大きいものでは2mを超えたようです。

善兵衛が天体観測の時に使用した各種測定具です。左から小方儀、中央は象限儀–矩尺(かねじゃく)–ノギス、右は渾天儀(こんてんぎ)です。

当時は望遠鏡を一つ作って売れば一年間は楽に暮らせたと言います。彦根藩の国友一貫斎は天保の大飢饉の時に自作の反射望遠鏡を諸藩に売って餓死寸前の村民を救ったとも言われています。それだけ価値のあるのが“星眼鏡“だったのです。“善兵衛ランド“にある展示品の多くは2003年に大阪府有形文化財に指定されています。岩橋善兵衛の末裔の岩橋茂治さんは9代目に当たり、今は大阪心斎橋で貸店舗業を営んでいるそうです。機会があれば“善兵衛ランド“に行ってみたいものです。

年寄りビーグル犬の悩みは一つ消えた。

なかまさ70

ボクはもうすぐ13才になるビーグル犬だ。とーちゃんが自治会の祭り委員の仕事やら、畑や休耕田の草刈りやで忙しいみたいでブログを書くまで余裕がないようだ。そこでボクが久々にブログ担当となった。憂うつな顔のボクを見てくれ…

実はボクの悩みは3ヶ月ぐらい前に背中の脂肪のかたまりが大きくなってきて皮膚の表面に出てきたのである。若い頃からあったものだが、先生は悪性ではないのでそのままでいいといってたらしい。とーちゃんが少し触ったらそんなに深くないみたいだといってた。それでも“かさぶた“になると後ろ足でカキカキすると剥がれて血が出てくるのである。


とーちゃんとかーちゃんは手術ができる病院にボクを連れて行き相談したようである。どうも手術で切除することに決めたようである。本人の意思は全く考えにない。老犬のであるボクは全身麻酔に耐えられるのか。慎重な先生は血液検査で確認した。…結果、肝臓機能低下、中性脂肪多、血液ドロドロ…先生は今のままではリスクが大きいとのことで体重を減らすこと、そして、肝臓機能改善の薬までもらった。手術まで2週間、ダイエットと投薬の日々が続いた。


そして手術当日、手術前に体重計に乗ったが1Kg弱減っていた。朝からなにも食べていないのだ。予定通り手術が始まった。なにが何かわからずうちに終わり、麻酔が切れ、5時間ぐらい経ってからとーちゃんとかーちゃんが迎えに来てくれた。ボクは本当にホッとした瞬間だった。頭はボーとしていたので車の中ではおとなしくしていた。〜家について少し散歩していつものように部屋に帰り少しおやつをもらって横になった。


次の日はご飯は少しづつ3回に分けて食べた。その次の日も少なめのごはん、3日目からはほぼいつも通り、4日目になるとご飯はいつも通り、体力も回復してきた。手術から2週間が経ち抜糸の日がきた。上手く縫ってくれていたので皮膚は元どおりになり、抜糸も痛くなかった。今では体調は元どおりと言いたいところだが、体重は元に戻っていた。まーあまり気にせずにと思ったが肝臓の薬を2ヶ月分もらった。とーちゃんの薬の量には負けるが、薬代は勝ってた。


ボクの手術の顛末をとーちゃんが写真を撮っていた。上の写真は脂肪のかたまりで直径3cmぐらいあった。(緑色で赤をカムフラージュ)下の写真左から手術後保護シート、保護シートを取ったところ、2週間後の抜糸前、抜糸後、上の方が少し赤いが皮膚はくっついている、ボクが後ろ足でカイカイしたのだ。

抜糸後、3日経ったが全く問題ない。傷口は痛くも痒くもない。手術してよかったー、もう少したっていい顔になったらまた登場するぞ!

内房海岸のダイヤモンド富士…秋の巻

なかまさ70

暑かった8月も終わりです。不安定な天気が続き、豪雨災害も頻発しています。異常気象は先の見えない下り坂のようです。地球環境を破壊した人間たちへの罰なのかもしれません。写真はいつものウォーキングコースの道傍にひっそりと咲いていた“ネコハギ“です。地を這うように茎を伸ばし、全体的にに柔らかな毛で覆われています。葉枝の元に咲く花は10mmほどで蝶々が羽根を広げたような感じです。

内房沿いで観察できるダイヤモンド富士は夕陽が沈む時のタイミングになります。富士山が望める場所であれば、同じ場所で年に2回見ることができます。春分秋分を挟んで春と秋にその日はやってきます。海越しのダイヤモンド富士はこのエリアでしか見ることができません。日が沈むに連れて茜空になり富士山のシルエットが浮かび上がる光景は絶景です。さざ波に太陽が反射しキラキラと輝き、ダイヤモンド富士を演出する宝石のようです。


今年の春に初めて写真撮影に望みましたが露出オーバーで太陽を丸く撮れませんでした。そして後日、南に下って再挑戦しましたが、富士山頂から少しずれた日時でした。

2026年4月3日〜磯根崎の砂浜から

2026年4月8日〜上総湊の砂浜から

ダイヤモンド富士の内房海岸北上はすでに始まっています。以下、ご参考にして下さい。

磯根崎は9月9日ごろ、日の入りは17時58分です。赤い線は日出、日入りの方向です。

富津岬は9月13日ごろ、日の入りは17時52分です。

金田海岸は9月29日ごろ、日の入りは17時29分です。

それ以外のダイヤモンド富士のポイントマップは下の資料を参考にして下さい。日没の1時間前ぐらいの明るいうちに現地に行って、周辺の状況などを確認して他人の迷惑にならないようにしましょう。特に車は公共の場所に駐車しましょう。

今から200年ほど前にこのダイヤモンド富士を描いた画家がいました。“葛飾北斎“です。1834年(天保5年)に刊行された『富嶽百景』初編の「鏡臺不二」です。太陽は鏡、富士山は鏡台を表しているそうです。漁を終えた漁師が橋を渡っていますが、飼い犬でしょうか足元にまとわりついています。漁船も船着場に入っていくようです。樽は生簀で、カラスが中を覗いています。この絵の場所はどこなのでしょうか。

浅はかな知恵を絞り出し場所と日時を推察してみました。まず富士山に雪があることから、初春の頃だと思われます。また、右の方に五重塔?が描かれていますが、海の向こうに富士、右手に五重塔となると限られてきます。五重塔はもしかして「中山法華経寺」ではないか?とすると船橋あたりだと思われ、右手の岬のようなところは浦安辺りだと思います。地図は現代のものなので昔の海岸線はもっと奥になります。この場所としてシュミレーションで日時を推察しました。私の推定は2月11日ごろ描いた絵だと思います。方角的にも富士山の位置は間違いないようです。…絵は“舟と橋“が手前に大きく描かれており、北斎の洒落でしょうか、絵の場所はやはり船橋です。昔の人もこの自然現象に感動していたのでした。