nakamasa201のブログ

定年からハカ場まで

竹炭を作ろう④

GWの真っ只中ですが、後半は天気も良く絶好のお出かけ日和です。自然の中で
心身ともにリフレッシュするのは、健康的で長生きの基本だと思います。
午前中、緑地帯の草刈りを1時間ほどやってきましたが、腕時計の跡がくっきり
残るほど日焼けしていました。紫外線対策は怠らないようにして下さい。


竹炭作りの窯は作りましたが、材料となる竹(孟宗竹)についてはもう少し知識
が必要だと1号窯での失敗の連続で感じていました。
問題なのは竹の水分量です。いい竹炭を作るには温度を高くすることが必要ですが
水分量が多いと竹が割れたり、温度管理を誤ると半炭状態の不良品になります。


まず竹の伐採時期ですが、諸説あり正解は分かりません。多くは晩秋の頃が含水量
が少ないのでいいと言われていますが、私もこの時期が一番いいと思います。


一番の理由は、この時期になるとヤマカカシなどの蛇が少なくなり、安心して竹林
に入れます。ただしヤブ蚊やブヨには注意が必要です。
もう一つの理由は、竹炭を作る時期です。炭作りは夏場は不向きです。暑い中での
 炭焼きは大変です。
竹の乾燥時間もありますが、伐採は10月〜3月、炭焼きは12月〜5月ぐらいが
最適だと考えています。


問題の竹の乾燥時間について調査しました。竹を伐採したのは12月です。

試料は長さ40㎝、幅5㎝、厚み10〜20㎜でビニールハウスの中で雨があたらない
場所で重量変化を調査しました。
結果、3ヵ月以降はほとんど重量変化がないことがわかりました。


ある程度の水分は「竹酢液」の回収が望めるので、その後の炭焼きは乾燥期間を3ヵ月
程度とすることと決めました。


次回はいよいよ炭焼きを紹介したいと思います。

竹炭を作ろう③

5月に入りました。今日はあいにくの雨模様で予定していた夏野菜の植え付けは
延期しました。現在、収穫出来るのは玉葱、絹さや、エシャロットなどです。
ネギはまだまだ食べれます。ジャガイモは遅れ気味ですがほぼ順調に育っています。


竹炭を作るにあたって、前回の②では窯の概要について書きましたが、今回は二号窯
の製作について書きたいと思います。


製作組み立て図です。赤丸印は温度計を設置した部分で5ヶ所あります。

耐火煉瓦の窯です。内部構造はこの図ではわかりませんが、焚口の奥が燃焼室で、その奥
が炭化室で竹の材料を入れる所になります。燃焼室との間には遮蔽煉瓦があり、上部に
燃焼ガスが通る開口部があります。燃焼ガスは窯の上部を、図では右から左に流れます。


燃焼ガスは炭化室から煙突に流れますが、そこにも遮蔽煉瓦があり、両側の開口部から
燃焼ガスが流れていきます。


煙突は垂直煙突と斜め煙突がありますが、接続はされていません。笠型の部分で外気を
吸込みながら、斜め煙突のインサート管(二重管の内側の管)を通り、長い斜め煙突に
流れていきます。


竹が蒸されて炭化していく段階になると、蒸気として斜め煙突を流れていきます。この時
蒸気はこの部分で冷やされて液化します。それを回収できるように受け皿を煙突下部に
付けています。回収液は「竹酢液」です。また、垂直煙突にはダンパーを設置しており、
排出ガス量を調整して、窯の中の温度を調整できるようになっています。


この窯の一番の特徴は天井が平らなことで、上部の開口部から材料の出し入れが、容易
に出来ることと、無駄な空間がないことで窯の温度上昇が早いことです。(燃料が少な
くて済む)また、燃料ガスが流れやすいように煙突側を3%の勾配で高くしています。


製作時の写真で、煉瓦の仮組み立てしている所です。手前が焚口です。


天井部を組み立てたときの写真です。開口部はステンレスのバケットに入っている耐火
断熱煉瓦です。農業用ハウスのパイプ材料を組み立てて、ステンレスの針金で煉瓦を
吊っています。この上に耐熱セラミックウールで覆い、ブリキの屋根を設置します。


煙突部分の組み立て状態です。斜め煙突の下部に竹酢液回収部があります。先端部は
風向きに対応出来るフードを付けています。煙突の角度は約30°です。


今回はここまでとして、次回は竹炭作りに入りたいと思います。

古希ジィの輪旅〜いにしえのGW

ゴールデンウィークが始まりました。仕事がある人は大変ご苦労様です。そういった中
46年前の私は新しく買った「片倉シルクロード」で輪行の旅に出ました。


出発は1978年4月29日、退社後に寮に戻って夕食を食べた後、前日までに用意
した荷物を持って最寄り駅まで移動、輪行の準備をして列車に乗りました。


行き先は飛騨高山方面、列車を乗り継ぎ到着したのは、越美南線 最終駅「北濃」駅
です。今は長良川鉄道になっていますが最終駅はそのままみたいです。


輪旅(サイクリング)の始まりです。旅程は下図の通りですが、行き当たりばったりの
野宿覚悟の旅でした。


北濃駅を降りた時は小雨模様でしたが、自転車を組み立て走行準備しました。朝方の駅前
は閑散としており、カッパにあたる雨音だけが聞こえていました。
1日目は御母衣ダム近くの宿に泊まりました。(当時は当日電話で宿の予約していました)


2日目は飛騨の合掌造りを観て、飛騨高山に向かいました。途中“松の木峠“〜“小鳥峠“を
越えました。当初の目的は“白山スーパー林道“走破でしたが、残雪で通行止めの為、断念
しました。予定変更です。高山市内を観光後、市外で宿泊し翌日の計画を立てました。


3日目は行先を松本市として、アルプス山々に雪が残る中、峠越えすることにしました。
まずは“平湯峠“で1684mあります。当時は旧道しかなく、しんどい思いをしました。


次は“安房峠“1812mあります。(当時は旧道)平湯峠を下り、平湯温泉から登ります。

二つの峠を走破し、疲れが見える肥満体の24歳です。峠を下った所の“中の湯温泉“に
宿泊しました。温泉は湯の花がいっぱいで、最初は随分汚い温泉だとためらいました。


4日目は“上高地“に立寄り、松本市に行く予定です。上高地へ行く“釜トンネル“が難関で
急坂と交互通行ができない狭い道路で、暗い中、危険を感じ、自転車を押して登りました。

上高地“河童橋“です。石段に座っているのは他人です。新緑と雪が残る穂高連峰が素晴らし
かったことを今でも思いだします。当時は観光客もまばらだったことが写真でわかります。


上高地を下りて松本市へ向かう途中の奈川渡付近の土砂崩れで通行止めに合いました。
松本市へ行くにはこの道しかありません。かといって今更、引き返し二つの峠を越える
パワーはありません。さっき通り過ぎた右側に建設中のトンネルがあったのでそこを通し
てもらい、木曽に向かうことにしました。途中“境峠“1486mを難なく越え木曽の藪原
に着き、それから木曽路を南下して上松の“寝覚めの床“の近くの宿に泊まりました。


最終日は木曽の妻籠宿〜馬籠峠790m〜馬籠宿をゆっくり観光し、木曽路南端の石碑
を観てから、一路“恵那駅“まで急ぎました。
恵那駅で輪行で名古屋駅まで、新幹線で東京まで〜最寄り駅に到着は21時過ぎでした。


現在では旅の情報を容易に確認できますが、当時は地図やガイドブックが頼りでした。
24歳の私にお疲れ様でした。もう二度と真似はできません。
    ーー写真は当時のネガをデジタル化したもので色彩が変ですがご勘弁下さい。ーー