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定年からハカ場まで

上総三国史④…ヤマト~クナ国~アクル王

なかまさ70

先日「花厳院 」に散策に行った帰り道にあった“枝垂れ紅梅“です。満開にはまだ少し早いですが、八重の薄紅色は周辺の空気を華やかに包んでくれています。(1月24日撮影)

遂に日本武尊が上総国にやってきました。東国征伐で国造(くにのみやつこ)の地方豪族たちをヤマト王権に従属させながら、ここまで進軍してきました。しかし、相模の走水からの渡海の途中に嵐に遭い多数の犠牲者を出し、妻の弟橘媛も失いました。失意の中でしたが軍の立て直しを早急に始める必要がありました。上総の大王、蝦夷(えみし)の阿久留王を制圧するには今の兵力では十分ではないことは明らかでした。〜このブログは「失われた英雄 新阿久留王伝説 」露崎清美著を参考にさせていただいています。


日本武尊はこれまでの様に、この地域の国造(くにのみやつこ)の豪族たちに従属するように迫ります。豪族たちは日本武尊がヤマト王権の征夷大将軍であることを恐れ、ここでこの大将を亡き者としたとしてもさらなるヤマト軍がやってくるだろう、そして彼には何よりもこの国を大陸からの侵略に対抗するためには早く内乱を治め、この国を統一して強国にしなければならないと言う大義がありました。結局は従属して難敵の阿久留王と戦うことを約束しました。上総をはじめ、下総の国造たちも服従せざるを得ませんでした。こうして元々は狗奴(クナ)国の大王に仕えていた豪族たちはヤマト王権に従属していったのでした。


兵力を立て直した日本武尊は木更津の太田山に本陣を構えます。40mほどの小高い丘ですが、南方には阿久留王の牙城がある鹿野山の熊野峰が望めます。そうして各地の国造からの兵がこの太田山に集結してきました。決戦の日は近づいていました。そうして先に阿久留王に奪われた“不入斗の小鷹“と“滝口の小高“の出城の攻撃を命じました。戦の始まりでした。各地に残る“御狩神話“では戦いの始まりは旧暦11月26日と考えられています。


二つの出城の防衛はそれぞれ300人ほどで、ヤマト軍の敵ではありませんでした。狩用の石の武器と鉄製の武器では叶うわけがありません。やがて難なく落城してしまいましたが、全員が逃げることなく討ち死にしていました。この事に日本武尊はこの後に続く本戦が厳しいものになると感じていました。〜そうして本戦を迎えますが、詳しくは露崎清美さんが書かれた本をご覧ください。歴史好きの人は必見だと思います。〜


日本武尊は阿久留王の本陣がある鹿野山へは4方向から攻撃を仕掛けました。南方向は九十九谷は傾斜がキツくて攻めるのには無理と判断したようです。下地図の右の緑丸印が阿久留王本陣、攻め込まれて逃げ延びたのが左の緑丸印の“鬼泪山“です。壮絶な戦いでしたが、阿久留王は覚悟を決めていたのか、手勢だけを残して多くの兵を逃していたそうです。後に続く蝦夷を彼らに託したのです。彼ら子孫はやがて東北の蝦夷の英雄の阿弖流為(アテルイ)になったと言う伝説が残っているそうです。

先ほどの「御狩神話(伝説)」とは安房国から上総国の各地に残る伝説ですが、例として、木更津の茅野にある「羽雄神社(祭神は日本武尊)」では旧暦の11月26日から12月5日までの10日間は日本武尊が鹿野山の阿久留王を攻め滅ぼした時期で“物怨み“をしていました。この期間は目立つことを禁じて、武人を家に入れたりしないこととされていたそうです。(明治維新後廃止されました)こういった神事は他の神社でも違った形で現在でも行われているようです。戦いの終わりは旧暦の12月5日と言う事になりますが…


前回③で走水から渡海した日時は各種の資料から10月22日として潮流のシュミレーションしました。これが旧暦だとすれば新暦11月の下旬頃になります。日本武尊が兵力を立て直す期間がありません。国造をまとめて、兵力や武器を調達するには1ヶ月以上の時間が必要と考えますが…やはり10月22日頃というのは新暦と考えるのが妥当だと思いますが?…あまり深く探索しても意味が無いようです。


こうして阿久留王は敗れてこの地域に多くの伝説が残りました。それと同時に日本武尊伝説は多くの神社などに残っています。その中でも鹿野山の神野寺は御本尊が“薬師如来“と“軍荼利明王“の二尊ですが、この阿久留王は軍荼利明王の化身とされ、御像は三面六臂(腕)だそうです。これが六手王(阿久留王)の語源なのかも知れません。一般の軍荼利明王は八臂ですが…①で紹介した鹿島台にあった神社の傍らの石の庚申塔に彫られていたのは一面六臂でした。この近くにある狐山古墳の麓にあったのは三面六臂と一面六臂の二つありました。

ネットで検索してみました。庚申塔はやはり二種類あるようで軍荼利明王に通ずるもののようです。三面六臂(八面六臂)は一人で何人分も働き、多方面で活躍をすることを意味しています。

皿引の山の中に「御太刀神社」があります。東国平定を成し遂げた日本武尊を祀っていますが、市道からキツイ登り坂と途中からは狭くて片側が深い谷の山道を400m近く登れば着きます。入口にある説明板と山道、そして本殿です。標高100m近くあり、木立の中の社は整然と鎮座して不思議に威厳が感じ取れました。阿久留王は鹿野山から敗走し、この地を血を流しながら、鹿島台にむかいました。血引は地名の皿引(さらひき)となりました。

日本武尊の後、坂上田村麻呂が最後の蝦夷の抵抗勢力であった東北の阿弖流為(アテルイ)と和睦を結び、これで全国の統一となったのです。時代はヤマト王権から大和政権、そして大和朝廷と続いたのでした。弥生時代〜古墳時代〜飛鳥時代と移っていきました。これで「上総三国史」を終わります。