上総三国史③…ヤマト~クナ国~アクル王
君津市常代の“花厳院“の境内に咲いていた「蝋梅」です。冬曇りの中、色鮮やかな黄色の花びらが目を惹きます。境内には白梅が10数本ほどあり、これも5分咲きぐらいで境内は香り豊かな空間となっていました。花厳院は上総国八十八ヶ所の5番札所となっています。

2~4世紀の古代の日本がどのような様子であったのかは中国の古代書で想像するしかありません。しかしながら、古代の日本には縄文人(蝦夷 えみし)がいて、朝鮮半島からの渡来人が古代日本に押し寄せ、次第に帰化していったことは間違いないようです。当然の事、争いが始まりますが、当時では近代的な武器を駆使する渡来人には争い事を好まない倭人(蝦夷)は到底敵いません。次第に勢力を大きくしながら倭国(日本)の統一を目指しました。邪馬台国から続いたヤマト王権の始まりでした。
ヤマト王権が全国統一国家を目指したのは国造(くにのみやつこ)による地方統治でした。上総国では特に多くの国造ができており、諸国統一の最前線だったのかもしれません。次第に東に北に逃げ延びる蝦夷(えみし~アイヌ人)でしたが、この上総の国で立ちはだかったのが、阿久留王だったのです。〜このブログは「失われた英雄 新阿久留王伝説 」露崎清美著を参考にさせていただいています。
〜前回からの続きです。ヤマト王権の皇子が阿久留王が住む鹿島台の3人の娘を誘拐したあげく惨殺してしまいます。その内の一人が阿久留王の娘でした。復讐に熱り立つ蝦夷たちは鹿島台に結集し、阿久留王は兵を挙げます。その数1000人余り、そしてまず向かったのが滝の口にある小高の皇子の住まいです。いくら先端武器があっても、数で圧倒する阿久留王軍に叶うわけがありません。皇子の命乞いなど耳にしません。そして次に向かったのはもう一人の皇子が住む不入斗の小鷹です。ここも難なく制圧し皇子たちは征伐されました。
この事件をしてやったりと思ったは周辺の国造たちでした…この当時の国造は反阿久留王、反ヤマト王権だったのです。ヤマト王権が進める国造制度は少なからずもこういった地方でヤマト王権の派遣皇族、狗奴(クナ)国の地方豪族であった国造、そして縄文時代からの蝦夷の王と三つ巴の勢力争いがあったのではないとかと思います。〜安曇野の“魏石鬼八面大王 ~ぎしきはちめんだいおう“や“東北の阿弖流為~アテルイ“などは阿久留王と同じ反逆者として歴史(伝説)に残されましたが、やはりヤマト王権統一の犠牲者だったのです。
この阿久留王の反逆行為をヤマト王権が許すはずがありません。全国統一を目指し「日本武尊」が父、景行天皇の命により東国征伐を進めている中でしたが、苦難の末、上総の国に辿り着きました。〜阿久留王に成敗された2人の皇子も景行天皇の子でしたが80人の子女がいたと言われています。(神話の世界です)上総に上陸した日本武尊でしたが、兵力を立て直すための時間が必要でした。日本武尊は東征しながら豪族たちを従わせて勢力を拡大していましたが、やはり上総の国造たちもその権力の前に従属することになりました。
…日本武尊は上総国のどの辺りに上陸したのでしょうか。少し調べてみました。
日本武尊の船団は相模の走水(はしりみず 横須賀辺り)から船出しましたが、上陸したのは新舞子海岸辺りではないかと推定されています。房総の富津岬辺りの海岸まで最短距離は7kmほどの海路ですが、ここは浦賀水道の難所であり手漕ぎの和船ではせいぜい時速3km程度だったと考えられます。海流や波高の影響が無かったとすれば3時間足らずで着きますが、途中で嵐にあったとされています。下の図は西暦110年10月22日の午前(左)と午後(右)の潮流シュミレーションです。🔴が走水辺りになります。浦賀水道は大潮の時は潮流が速く、干潮〜満潮時は太平洋から東京湾に流れ込み、満潮〜干潮時は湾から出て行きます。この時は渡海には適しません。この日は潮流の小さい小潮(上弦下弦の月)であり、船出に最適と考えました。…この年月日と決めたのは次回説明したいと思います。

船出は午前中、恐らく対岸が明るくなって目標とする山影(東京湾観音の小高い丘?)がはっきり見える時間だと思います。9時ごろに船団が出港したとすれば、昼前は航路半ばほど、恐らく突然の大嵐(南岸低気圧の南風か?)にあったのはこの辺りで、弟橘媛たちが入水した場所になります。(❌の辺りか?)入水した後は波が静かになったと言われており、潮止まりの時間帯だったのかもしれません。
そしてこの後に北風となり潮の流れに任せて、舟は南に流されます。房総側の流れの突きあたりが湊川河口周辺です。(🔺の辺り)北側には大きい入江があり、砂浜が続く新舞子海岸から竹岡周辺です。恐らく上陸した場所だと考えられます。嵐にあった数日後、小櫃川河口周辺の畔戸浜(木更津~袖ヶ浦)には多数の遺体と遺品が流れ着いたそうです。(右図の赤線の辺り)下の写真は竹岡漁港から望む富津の海岸線です。

下の写真は湊川河口の南側の高台にある「住吉神社」です。この浦賀水道は今も昔も潮流が速くて海の難所となっています。ここの「住吉神社」は海上安全と豊漁を祈願する神社と言われており江戸時代に創建されています。嵐にあった日本武尊の船団の10人の従軍の宮様たちの舟は住吉の神々に導かれ無事にこの地に着いたと言う伝説があります。

神社の下には「十宮山 薬王寺」があります。十人の宮様は地名と寺の山号となりました。

…日本武尊は上総に上陸後に兵力を立て直し、写真の佐貫町にある「日月(にちげつ)神社」辺りで日月旗を旗揚げして阿久留王との戦いに向かったのでした。〜次回に続きます。

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