上総三国史①…ヤマト~クナ国~アクル王
小さな山里にも春が近づいているようです。早咲きの白梅がここ数日の陽気に誘われてか、ほぼ満開となっていました。陽光に白い花びらが輝いて見えます。

昨年の暮れに友人から、独身時代の寮の近くに日本武尊伝説が残る「小鷹神社」があると連絡がありました。それとその根拠となる「失われた英雄 新阿久留王伝説 露崎清美著」の一部を送ってもらいました。ここに神社があることは知っていましたが、寮時代(50数年前)には全く興味がありませんでした。この場所一帯は昔は“大俵台“と呼ばれていていたそうで、神社近くの“大俵桜“はその名残で近年、桜の名所となっています。〜今一度、古代上総の時代を視点を変えて覗いてみようと思います。
この「小鷹神社」は市原市不入斗(いりやまず)にあり、同じ読みの「小高神社」が袖ヶ浦滝の口にあります。この二社はどちらも祭神は日本武尊となっています。この二社ができる前の時代、ヤマト王権から景行天皇(4世紀前半の頃か?)の二人の皇子が国造りの先駆者として、それぞれ場所に派遣されたそうです。そこに居を設けてヤマト王権を後ろ盾に国造りを進めていきますが…その話は後述としますが、写真右上は「小鷹神社」、左下は「小高神社」です。いずれもグーグルからの写真を借用しています。

折しもこの時代の西上総の地域の南側には“鹿島台“(君津市六手)という所に蝦夷の大王“阿久留王“が住んでいました。また、ヤマト王権が進める国造(くにのみやつこ)制度ですが、その地方を支配する地方豪族が国造を任じられ、それまでと同様に権利は認められたものの、大きく異なるのはヤマト王権に服従し、任じられた立場であったということです。この西上総地域には馬来田、上海上、須恵国造などがありました。その中で、阿久留王はどこにも属さない国を平和に守っていました。
その背景ですが、時代を遡ってみると〜ヤマト王権は渡来民族で、国造を任ぜられた地方豪族は先住民族の蝦夷(えみし)です。諸説ありますが、卑弥呼は渡来人で3世紀の前半の頃、邪馬台国(九州説として)を治めていました。先住民たちは自らの国を追われることとなり、卑弥呼と対立するようになります。熊襲(くまそ)や隼人(はやと)などは南へ追いやられます。その後の神武天皇は九州の日向を立ち瀬戸内海沿いに畿内に入り、大和の国で初代天皇となったと言われています。
邪馬台国と対立していた先住民(蝦夷)の国は、狗奴国(くなこく)といい卑弥弓呼(ひみここ)という男王が治めていました。ヤマト王権の勢力拡大により狗奴国は次第に東方に追いやらていきます。3世紀末頃のヤマト王権が畿内に入る前の狗奴国の勢力範囲です。〜下資料は「房総の神話・伝承からみた古代日本の謎」金田弘之著からです。

しかし狗奴国はヤマト王権の勢力の前に次第に従うようなっていきます。しかしながら地方豪族は我が大王は狗奴国の大王であるとして、ヤマト王権が国造を進める頃になってもその考え方は変わっていませんでした。古墳時代の前期の頃の神話か史実か不確かな話しですが、確かなのは古墳の形からその時代の勢力が狗奴国かヤマト系がわかるようです。狗奴国は“前方後方墳“、ヤマト系は“前方後円墳“であったようで、古墳前期は狗奴国系の“前方後方墳“、後期に入ると圧倒的にヤマト系の“前方後円墳“が多くなってきます。

ローカルエリアですが、4世紀の西上総は“狗奴国系の国造“と“ヤマト王権の派遣の皇子“、そして蝦夷の王“阿久留王“とのそれぞれの思惑が絡んでくる時代になっていました。〜ことの発端はヤマト王権の皇子が起こした不祥事のようです。〜次回に続きます。
君津市六手の“鹿島台“遺跡は館山自動車道の建設工事に伴い、発掘調査が行われましたが、現在ではその跡形もなく畑に変わってしまいました。右上のオレンジ色部分が鹿島台遺跡で阿久留王が住んでいた場所と言われています。右下はその北側にある社です。

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