nakamasa201のブログ

定年からハカ場まで

総の国の古代寺院②…飛鳥白鳳時代

なかまさ70

金木犀の香りが里の秋を一層深めてくれそうです。一昨日の強風で花がどうなるかと心配しましたが、咲き始めなので散らずに頑張ってくれていました。ただ、家庭菜園のゴーヤーの柵が倒れてしまいました。収穫期は終り、小ぶりのゴーヤーしか採れていなかったので、片付けのきっかけになりました。〜写真の金木犀の花を見るだけでその香りを感じます。

飛鳥時代末期の白鳳期に中央政権の政策もあり、全国で仏教寺院が建立されるようになりました。3世紀後半から続いた権力の象徴でもあった“古墳“から、次第に“寺院“に変わって行き、地方の豪族たちはこれを次世代の象徴として、価値観が変わっていきました。中央の飛鳥地方では“飛鳥寺“を始めとしてその後の白鳳期(645年~710年)には多くの寺院が建てられていきました。


房総半島は、古墳時代から中央政権(畿内)と深く関わっており、貝塚、古墳などは多く発掘されています。特に上総、下総についても白鳳期には古代寺院が多く建てられています。


最初に紹介するのは君津市内蓑輪にある「九十九坊廃寺」です。7世紀末(680年〜700年頃)の白鳳期に建立された寺と考えられています。当時は多くのお堂や御坊があったためにこの名前になったようです。昭和10年に県指定史跡となりました。現在ではテニスコート2〜3面分ぐらいの広さに写真の石碑と一部の礎石を残すのみとなっています。

下の左図は発掘調査した範囲で、右は現在のグーグル写真です。赤い枠で囲ったのが現在残っている史跡の趾です。黄色の丸は石碑がある場所です。この場所は当時は須恵(すえ)の国で、後に周准(すえ)郡となり、この地域には小糸川流域の内裏塚古墳群や割見塚古墳が存在しています。古墳時代から続く豪族から、国造(くにのみやつこ)が周准郡の郡寺として建立したものと推定されています。


昭和9年以降の前後3回の発掘調査で講堂や塔、 中門などの礎石等の建物跡が見つかっていますが、金堂の部分は現在は墓地になっており不明です。 北に講堂、東に金堂、西側に塔を置いた法隆寺式の伽藍配置であったと考えられています。下図の左側「九十九坊廃寺」で右側が「法隆寺西院」の伽藍配置です。(尺度は違います)



 

下の写真は発掘調査時の状況で、最初の写真の石碑(黄色枠)の向こう側(西側)に塔の礎石があったようです。右写真が塔の礎石の発掘の状況です。三重の塔と推測されています。

下の左側は出土した軒丸瓦の拓本です。“三重圏文録四葉単弁蓮華文 軒丸瓦“といいます。この丸瓦は飛鳥の山田寺系の“三重圏文縁八葉単弁蓮華文 軒丸瓦“の影響を受けていると言われています。(左下の写真)山田寺は飛鳥時代の蘇我氏一族に属する蘇我倉山田石川麻呂(蘇我馬子の孫)によって7世紀末に創建された寺院です。九十九坊廃寺の丸瓦はその関係の瓦職人だったのかも知れません〜 

右側の想像図は発掘調査から伽藍配置を推測して描いたものです。(八重原公民館 作画)三重の塔の奥にある大きな建物は講堂で右手には金堂があったようですが、調査不十分で描かれていません。左側に多くの御坊があります。

この丸瓦は木更津市大久保牛ケ作瓦窯遺跡で作られたようで同じ紋様の丸瓦が出土しています。下の地図の赤丸印の所が瓦窯があった所です。(高速道路 木更津南IC近くです)

この九十九坊廃寺趾から道を100mほど下ったところに内蓑輪公園(日本庭園)入口がありますが、その手前に「鐘ヶ淵」に入る道があり100mほど歩くと着きます。九十九坊廃寺にあった鐘が戦国時代の里見と北条の戦いで兵火にかかり、この池に沈んだという伝説があります。九十九坊廃寺との高低差が10m近くあり、落ちてきた可能性はあります。?

また、九十九坊廃寺の市道を隔てた西側には八重原公民館がありますが、この建設に伴って発掘調査されたのが“南子安金井崎遺跡“です。ここからは九十九坊廃寺の丸瓦が出土しており、何らかの関連性が推測されています。左側の写真発掘調査時の航空写真です。右側は現在のグーグル写真です。〜この右側(東側)方向には九十九坊廃寺趾があります。

今回紹介した九十九坊廃寺は飛鳥時代末期の飛鳥地方の山田寺、法隆寺、川原寺などとほぼ同時期に建立された寺院ですが、もう少し知名度があってもいいように思いますが…

次回は木更津方面の古代寺院〜まずは「上総大寺廃寺」から紹介したいと思います。

*このブログは財団法人千葉県文化財センター編集発行「房総考古学ライブラリー7 歴史時代⑴」及び八重原公民館の資料、インターネットを参考にさせていただきました。