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戦後80年~近くの戦争遺跡(番外編)

なかまさ70

今年の2月に“近くの戦争遺跡“を①~⑤に渡りブログにて紹介しましたが、その時に調べた中で書き足らないことが多々ありました。遺跡は恐らく今後もそのままで残りますが、戦争体験の記憶は伝承、映像などで事実を後世に残していくことが大切です。そして何よりもこの戦争がほんの少し前に現実に起こっていた事実なのです。戦後80年、タイムスリップしてあの時代の出来事を今一度、見つめ直してはいかがでしょうか。


今回は番外編として「きみつアーカイブス」の“ 君津地方の空襲の記録“から近くであった戦争被害について一部を書き出してみました。この地方の民間人の戦争被害は終戦に近づくにつれて大きくなり、太平洋に展開するアメリカ海軍の第五艦隊艦載機で関東近辺の空襲などのB29爆撃機の護衛戦闘機が帰りに上総の君津地方をを襲撃したものが多かったようです。下図は君津地方の被害の地図です。

1944年2月16日…飯野村国民学校付近に爆弾の破片が落下〜1945年の間違いと近年の調査で判明しました。被害は無かったようです。

1944年7月10日…小型機数百機東方洋上より侵入飯野村も空襲→被害無し?

1944年11月?日…金谷砲台へグラマン機空襲、浜金谷駅屋根貫通→人的被害無し?

1944年11月27日…西原地区に5発の爆弾が投下され、辻堂が全壊→人的被害無し?

1944年12月14日…平川町永地(旧平岡村)の民家に日本軍の戦闘機が墜落し、住民4人と搭乗員2人が死亡しました。また、隣の民家も全焼しました。


1945年2月17日から終戦の日まで木更津基地の攻撃は続きましたが、房総線各所で列車銃撃により木更津で2名が亡くなったそうです。

1945年2月25日… 小糸、清和地区全体が襲われ、亡くなった方々は清和村で3人、小糸村大野台で1人だったそうです。〜後で詳しく〜

1945年4月15日…夜、B29が小櫃駅附近に墜落しました。→人的被害無し?

1945年5月2日小糸村から小櫃村上空で空中戦、日本機が小糸と小櫃の境となる山中

 で撃墜されたそうです。

1945年5月8日…アメリカ軍艦載機、東京湾より低空侵入、君津、青堀、飯野、佐貫を機銃掃射して、岩富寺が全焼しました。〜後で詳しく〜

この日の被害は君津小山野で2人死亡、2人重傷、長浦村でも機銃掃射で2人の死傷者、平川町一帯が艦載機に空襲され、死者が2人、けが人が1人あったそうです。同日、市原市松崎でも機銃掃射により学童3人死亡、先生などの11人が重傷の被害がありました。


1945年5月24日…木更津市太田山にB29が墜落、5月25日木更津市馬来田村にB29墜落、5月29日木更津市烏田に墜落、8月2日には木更津市金田村に墜落し、それぞれに複数人のアメリカ軍兵士が亡くなっています。

1945年6月10日久留里町愛宕地区が爆撃され、死者6人、負傷者2人の被害がでてます。同日、清和村でも農作業中のお年寄りがB29の爆弾により亡くなっています。

1945年6月11日艦載機飯野村国民学校附近に空襲がありました。→人的被害無し?

1945年7月?日…富津市梨沢の川名武方長屋門空襲により焼失→人的被害無し?

1945年7月9日、17日に木更津上空に艦載機来襲→人的被害無し?


東京や横浜などの大都会、軍事主要施設が近いとはいえ、民間人への攻撃は戦争という魔物がそうさせたのだと思いたいです。この中の2月25日の小糸村と5月8日の君津地区の被害について、証言による史実を抜粋になりますが書きたいと思います。(作者には大変申し訳ありませんが…は省略部分です。詳しくは“きみつアーカイブス“をご覧ください。)


2月25日小糸村〜朝七時半、雪の舞い落ちる朝、小糸村は二機のグラマンに襲われました。…私達(墨田区中和国民学校4年生31名)は朝食の最中で、私はトイレ…早く戻って食べようと長い廊下を急いで歩いて来た時、ふとはるか右上方の遠い所でアブの羽音のような音が聞こえて来るのに気が付いた。何だろう?足を止めて見上げると黒い点が見え、それがぐんぐん大きくなって来る。すごい音になった。あっグラマンだ。アメリカ人だ。青い目をした赤ら顔が見える。やられる逃げなきゃ。それらの事がとっさにかけめぐり私は走った〜あと五メートル位で部屋に入るという所でバーンという大きな音とともに視界一杯に閃光がきらめき、目がくらみぼうっとして何も分からなくなった。…


気がついた時は皆と共におぜんの下に潜っていた。後で聞いた話では長いおぜんに皆が差し向かいで食べている中央を機銃弾がピューピシーと通って行きおぜんの上に弾のかけらがころがり、奥のついたてにブスブスと弾がささったとの事である。食器もガラガラと落ち皆にフトンをかぶせようと寮母さんは押入れに走り何人かにかぶせつつおぜんの上の弾のかけらを手にとって見たとのことである。死者がでなかったことは奇跡としか言い様のない事態であった…このすぐ後に、屋根に突き刺さった弾が火を噴き、長谷寺(疎開先)は炎上した。…しかし、風邪をひいて休んでいた地元の大好きだった女の子が犠牲になり、母親も重傷だったそうです。〜地図で場所を確認すると田園が広がる普通の田舎なのですが、何故ここが?


〜写真は上総国八十八ヶ所の76番札所であった疎開先「長谷寺 ちょうこくじ」跡です。お参りした時は、戦争で焼け落ちたとは知りませんでした。

長谷寺跡は君津市大野台にありました。下地図の赤丸の場所です。小さなお地蔵様は亡くなった女の子なのでしょうか。その後、疎開先は少し北の万福寺へ移ったそうです。

※現代の航空写真と1930年頃の地図を同期して並べています。


5月8日貞元村~貞元小学校が機銃掃射を受けたのは私が1年生の5月であった。警戒警報が出さ学童は地区ごとに上級生の班長の指示にしたがって「防空頭巾」をかぶり走って下校したが、…飛行機が飛んでくるのが見えた。後ろで上級生が「溝に伏せろ」と叫ぶのが聞こえた。学校ではいろいろな避難訓練を受けていたので…伏すと同時に、上空を轟音をたてて敵機が過ぎ去っていった。私達は、「貞福寺」の森に向かっ夢中で走った。そこにはお寺で飛行機部品を作っている兵隊さんも避難していた。…艦載機は上湯江の付近を超低空で飛行し、竹やぶが風圧で倒れパイロットの顔が地上から確認できたと子供を途中まで迎えにきた父親が言っていた。敵機は三舟山の上空で旋回し、再び姿を現わし貞元小学校や八重原航空廠を銃撃して飛び去っていった。翌日登校すると1年生の教室の南側壁に穴があき、机を貫通していた。隣の部屋の職員室も銃弾がぬけていた。…幸い貞元地区では人的な被害はなかったが〜下地図の赤丸上が小学校、下が「貞福寺」上総国八十八ヶ所16番札所です。黄色枠は第二海軍航空廠八重原工場です。貞元小学校でも航空機部品を作っていたそうです。

同日の小山野村〜周南の小山野地先で農作業を終え昼食に帰宅途中、牛を引いた家族が銃撃を受け、母親と長女が即死、父親(祖父)が腹部を、次女が頭部をうたれ重傷、牛も即死するという悲惨な出来事があった。また、このとき岩富寺の本堂も全焼してしまいました。…上の赤枠が小山野、下の赤枠が岩富寺(上総国八十八ヶ所7番札所)になります。この近くには第二海軍航空廠佐貫地下工場(黄色い枠)があり、この日はトンネル?貫通式で、そこで働いていた朝鮮の人たちが岩富寺境内で祝宴を開いていたそうです。

佐貫地下工場の工員たちの写真です。終戦日の次の日です。何故か笑顔はありません。

これらの写真は佐原の写真館の坂本正二さんが1945年8月16日に撮影したものです。

この時の東京の最高気温は32℃超え、21日には34℃だったようです。暑い夏でした。

上の写真を撮影したと思われるトンネルを塞いだ現代の様子です。

今回はほんの一部しか紹介できませんでしたが、詳しくは「きみつアーカイブス」の中の“君津地方の空襲の記録“を見ていただければと思います。

以上で“近くの戦争遺跡番外編“を終わります。