nakamasa201のブログ

定年からハカ場まで

四国遍路〜定年リセット旅-13…巡礼の合間に

なかまさ70

お盆が過ぎてもまだまだ暑い日が続いています。我が家の回りの田んぼはそろそろ稲刈りのシーズンが始まります。田んぼの上を自由に飛び回っていたツバメは少なくなり、“アカハラツバメ“はもう見なくなりました。季節の変わり目はハッキリと感じられませんが、コオロギも鳴き始めていて、やはり秋は近づきつつあるようです。写真の上段がアカハラツバメが飛んでいた8月4日で下段が8月17日です。稲穂は黄金色になってきました。

10月19日、四国遍路旅も14日目です。前日は今治市を巡り、その前までには西条市の周辺の札所は参拝を済ませていたので、愛媛県で残るのは四国中央市の65番札所“三角寺“だけです。西条市から新居浜市、四国中央市までは札所がありませんが、私の人生の変換点の地域でもあります。遍路旅は一旦休みとしてしばしの間、自分の過去を巡りたいと思いました。〜車で今治市の宿から新居浜市へ移動します。


新居浜市はここの大手の化学会社の入社試験を受けた所です。幸いにも合格しましたが、採用は千葉の方となりました。出身は隣県の香川県ですが、そこから千葉県へ〜どうしたものか…それは次男の自由さと、どこで生きても頼りになるのは自分自身だけの精神?〜そして千葉県で暮らして50数年になりましたが、後悔はしても始まりません。


現役時代は公私共に10数回はこの新居浜市を訪れています。車で市内をぐるっと廻ってから道の駅“マイントピア別子“に立ち寄ります。前から行きたかったこの町の発展の基礎となった銅鉱山跡“東平 とうなる“へバスツアーで向かうことにしました。マイクロバスでのツアーですが、待ち時間が1時間ほどあったので、受付で自転車で行ってもいいのか?と聞きましたが、一笑されて「まず無理です」と言われてしまいました。


そして出発時間、バスに乗り山道をどんどん進み、狭くて葛折りの急坂が続きます。バスのエンジン音も高くなります。標高750mまで10kmの道程、標高差は600mで、平均勾配6%ですが、最大では10%越えも多くあるようです。なるほど自転車では難しいです。

ツアーの面々と、産業遺産の一部の写真です。ガイドさんはOBの方のようです。

この銅鉱山はまだまだ山奥深く続いており、坑道は全長700km、最深部は海抜マイナス1000mにもおよび、江戸時代から昭和の初期にかけて約65万トンもの銅を産出したそうです。(栃木県の足尾銅山の82万トンに次ぐ、日本第2位の産出量でした)


山を降りて、新居浜市内へ戻ります。宿に車を預けて自転車で思い出の場所をじっくりと巡りました。様々なシーンが思い出されましたが、深入りはあとを引きそうになるので制限時間内で宿に帰ることにしました。


次の日(10月20日)は四国中央市に向かいます。私が四国から出た時代には、まだ川之江市でした。ここは父の実家があった街で、当時から大手の製紙会社があり、江戸時代頃から紙業の盛んな所で“紙の町“として発展してきました。曽祖父の時代には阿波紙漉きを生業としており、祖父の代まで(昭和30年頃までか?)続きましたが、父は別の道を選びました。私はここで4才ぐらいまで過ごしました。


〜先日、NHKラジオで「風船爆弾」を川之江で作っていた当時の高等女学校の方が語る番組がありました。その紙はもしかして我が実家でも作っていたものか?親兄弟のうち次女が年齢的には女学校に行っていたかもしれませんが、それを確かめるすべはもうありません。当時の“国民総動員令“から考えると、私の家族は風船爆弾製作に関わっていた可能性が十分にあると考えられます。下の資料はインターネットからです。女生徒たちの献身さが痛々しく感じます。(この記事の中の“死傷者五百名“とありますが、これは“目撃者五百名“の間違いだったようです)川之江高等女学校は現在の川之江高校にありました。

今では父の実家もありませんが、お墓は実家の近くの川之江高校の山手側にあります。


この日は川之江を通り過ぎ香川県の札所を巡った後に、再び川之江に戻り、宿に車を預けて自転車で65番札所「三角寺」に向かいました。〜次回に続きます。